高野山の歴史
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結縁潅頂
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高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。
標高およそ900m。
山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があります。そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、 仏像や曼陀羅が参拝者を迎えます。
また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。

平成16年7月7日に高野山は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。高野山には、今も大勢の信者や、四国八十八カ所の霊場を巡ったお遍路さんたちをはじめ世界から大勢の人々が、参詣に来られます。いつの日も、御仏の慈悲の心をこめて、訪ねる人々をやさしく迎える聖地、それが高野山なのです。

弘法大師の足跡

弘法大師 空海 ご誕生 勉学の時代
一般的に「お大師さま」の名称で親しまれている弘法大師は、讃岐の国(現在の香川県)に生誕しました。
父は佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀(あと)氏の出身で、その三男です。
仏教に対する信仰心の厚い家庭であったと言われています。
15才の頃から漢学や史学を学び、後に上京し、18才の時に都の大学の明経科(現在の文学部)に入って、中国の古典や儒教の学習を積まれました。

大師は、漢詩についてすぐれた才能があり、これはこの時代に一層磨きをかけたということです。

出家 密教をゆだねられる 高雄山の潅頂
当時の大学のエリートコースに入り、努力を重ねていたのですが、一人の沙門に会い、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)の法を授けられたことが、大師の大きな転身の端緒となりました。

このころの教育は、官吏養成に主眼を置いた無味乾燥な大学教育にみきりをつけ、ひたすら仏道の修行に心を向け、20歳で出家しました。
31歳の延歴23年(804年)7月、大師は藤原葛野麿(かどのまろ)を大使とする遣唐使の第一船に便乗して、海を渡られ、その年の暮に、長安に入りました。

諸大寺に学僧を訪ねたり、インドの話、サンスクリット語(梵語)を習い、教えを受けます。

そして恵果和尚より正統密教をきわめ、8人目の阿闍梨遍照金剛の称号を得、唐滞在2年余、大同元年(806)に帰国し、真言密教を各地に広められました。
弘仁3年(812)年に伝教大師が弘法大師に弟子入りしたことで、弘法大師の仏教界、朝廷への評価を一気に高めました。
また、弘法大師の元に、多くの弟子があつまりました。このころに真言宗が成立したと言われています。

高野山の開創
当時の帝、嵯峨天皇より高野山を賜わり、弘仁8年(817)には諸弟子が工人等多数を伴って登山し開創に着手され、これが高野山金剛峯寺のはじめといわれています。

万濃池の修築
東寺を根本道場とする
弘仁12年(821)5月、朝廷は、弘法大師を讃岐国にある万濃池(まんのうのいけ)の修築別当に任ぜられました。
弘法大師は、讃岐国出身で、中国留学によって、先進技術文明を見聞し、土木事業についての高度の知識と技術を身につけておられたと言われ、大きなため池を修復するという難工事を3ヶ月で見事に完成させました。
弘仁13年(822)2月、東大寺に潅頂道場(真言院)を建立し、高雄山寺において、鎮護国家の為に仁王経法(にんのうきょうほう)を修し、平城上皇に密教独特の戒である三昧耶戒を授け、潅頂し、翌14年には、嵯峨天皇にも潅頂を授けたという記録が残っています。

弘仁14年(823)正月、朝廷より弘法大師に東寺がまかされています。
それ以後、真言宗の根本道場として、社会活動の拠点としてました。
弟子の僧50名を常住させ、他宗の僧がここにまざり住む事を禁じ、真言密教の研究に専念するようにとの官符が下されています。

天長元年(824)2月、大師は勅命によって神泉苑(しんぜんえん)において雨をいのり、翌月、少僧都に任ぜられ、同4年5月には内裏において祈雨法を修し、大僧都に任ぜられました。

著作活動
弘法大師は、多忙な生活の中で多くの書物を著されていきました。
広法二種類の「付法伝」は、大日如来から恵果和尚までの正統な密教を受け継ぎ伝えた祖師たちの系譜とその伝説をあきらかにしています。
真言の教えの理論的な根拠を明らかにした「即身成仏義」「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」「吽字義(うんじぎ)」の真言宗の三部書等を著しています。
他にも、「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」「文筆眼心抄(ぶんぴつがんじんしょう)」「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」
や、最も晩年の著作「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」等もあります。

民衆のための大学
天長5年(828)には、東寺の東隣に綜芸種知院という学校を開き、貴賎・貧富の区別によって入学制限を設けない広く門戸の開かれた学校でした。
ですが、経済的と人材不足の理由で20年で廃せられました。

永遠の定に入る
造営が続いているさなか、大師は62歳の承和2年(835)3月21日に入定され、即身成仏をとげられました。
その後、高弟真然大徳が中心となり、伽藍の造営を進め成功させ、仏教各派の修禅の大道場として栄えました。
現在、伽藍と奥の院の両壇を中核に総本山のほか、117ヶ寺があり神秘な霊場を形成しています。